現代の日本で育った人間は特に、言葉と味覚に対して鈍すぎるんじゃないか、と感じることが多々ある。
「香りと風味の違い」http://www.st38.net/naruhodo-nattoku-chigai/z0161.html
これはちょっと違うかな...
『いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな』
日本では中世から「にほひ」の意味に「〜の(美しさを)見る・感じる」という使われ方があったわけで、「昭和の香りがする」は香りに例えるよりはむしろ、「昭和の良さを感じる」という文学的意味の方がしっくりくるのではないだろうか。
一方で
風味とは、口内から鼻に抜ける香りのこと
雑誌の住人: 「風味」とは口内から鼻に抜ける香りのことである http://zassinojunin.jp/20141129/760
これは一瞬で腑におちた気がする。
ひと口に 味 と言っても実に複雑なもの
ひとつめの分類は舌にある器官、味蕾で感じる刺激の五味(味覚)。
- 苦味
- 酸味
- 塩味
- 甘味
- 旨味
もう一つの分類は嗅覚によって感じる刺激(の味覚)。
- 香味(風味)
これは上記『雑誌の住人』で紹介されているゴードン・M・シェファード氏の著書 美味しさの脳科学:においが味わいを決めている によれば、この嗅覚による刺激は
- オルソネイザル経路の臭い:普通の鼻から外気を吸うことで感じる臭い
- レトロネイザル経路の臭い:口内から鼻に抜ける時に感じる臭い
と分類されるそうだ。なるほど。科学的にはこの六味の掛け合わせが「食物がどんなものであるか」を認識する指標になるんじゃないかと思われる。
「やわらかさ」は味覚か
ここでひとつ気になるのは日本でよく指標とされがちな「やわらかさ」。
TVでもよくやっている。
でもこれ自体は正確に言えば咀嚼のし易さであって「美味しさ」それこそ文字通り「美しい(すばらしい)味」ではないはずだ。
例えば調理された肉やパンを口にして、それは「噛み切りやすくて嬉しい」のか、あるいは「噛みごたえのある」ものなのかどうか、ということではないだろうか。
うどんで「ノドゴシがよくて美味しい」なんていう表現にも違和感を感じる。
「ノドゴシがよくて楽しい・心地よい・おもしろい」といったところが正解ではないだろうか。
「歯ごたえ」や「歯ざわり」といった触覚による食感は味覚とは全く別なものだからだ。
だからやっぱり自分にとって「柔らかくて美味しい」という表現は味覚音痴にしか感じられない。
味覚は誤認する
視覚から入ってくる食物の感じに、たいてい「美味しそう」と口にした後のことを想像して表現することはあっても、「美味しい」とは表現する人はほとんどいないだろう。
こうした認識のほとんどは人間の生死に関わる本能に由来するところであり、判断基準の優先度から知覚の優劣が決まってしまう。食に関して優先度は
- 視覚
- 知識、記憶、経験
- 嗅覚
- 味覚
の順だろうか。
視覚によって 目の前にある それ が 1. 食することができそうかどうか最初の直感で判断し、2. さらに過去に知り得た知識や記憶、経験といった脳内の情報と照合して 1. の判断精度を高め、3. またさらに 1. と 2. の判断が確かなものかどうかを嗅覚の『オルソネイザル経路の臭い』という別な手段によって判断し、口に運んでも良いのかどうかを判断している。4. 最終的に口にしても安全と判断した食物を味覚と『レトロネイザル経路の臭い』から総合的に判断して「食した人にとって味覚的に心地よいかどうか = おいしいかどうか」は決定される。
これには面白いことに、優位度の高い知覚によってバイアスをかけられ、誤認が生じてしまうことがよくある。
例えば味覚の五味が本来のものとは異なっていても、香味の心地よさ = 風味の良さ によって美味しいと誤認してしまう。先ほどの『雑誌の住人』に書かれている「砂糖水ゼリーに香味をプラスすると味覚を誤認する」のがいい例だ。
あるいは「フランス産」や「ブルゴーニュ産」だから「チリ産」ワインより値段も高いし、美味しいはずだ、という誤った知識のバイアスによる誤認も同様だし、シャンパーニュの販売価格と味覚を結びつけ、それだけで評価しようとしてしまうのも同様だ。
最たる例は食品サンプルかもしれない。もちろんサンプル用の陳列棚にあれば、それは食品サンプルとして認識し食べることはできないと判断できるものの、精巧にできたものは「美味しそう」と感じることもあるだろうし、まして陳列棚ではなく誤認させるような環境で食品サンプルを使用したら、全く気付かずにかじりついてしまう人もいるだろう。
このように「優位度の高い知覚による味覚の誘導」がおこるのだ。
◯◯風味?◯◯風料理?
よく目にする表現として「◯◯風味」とか「◯◯風◇◇」とかいうのがある。
「優位度の高い知覚による味覚の誘導」の事例を当てはめて考えると「◯◯風味」は味覚を誘導するために「香味付けした」味覚である。
では「◯◯風◇◇」はどうか。
有名な、かの「ミラノ風ドリア」はミラノには存在しない。
というか、そもそも「ドリア」は横浜生まれだからイタリアにはない。
「◯◯風」は「◯◯っぽい」とか「◯◯を感じさせる」いう意味合いで使用されると言えるだろう。あるいは「正統ではないが、それとなく似せている」という、アジア的解釈なアレということでもあると言える。とすると「洋風料理」や「欧風料理」というものを「西欧っぽい感じの料理」もしくは「西欧を感じさせる料理」と解釈するなら、それは「洋食」とは似て非なるもの、ということになる。
ここで気になるのは、イタリアの郷土料理の日本語訳についてだ。
例えば Bistecca alla Fiorentina や risotto alla Milanese を日本語に訳すと、たいていは「フィレンツェ風ステーキ」や「ミラノ風リゾット」と対訳されている場合がほとんどである。「ミラノ風ドリア」のように「似せもの」であるならそれは間違いないのだが、ここでの Fiorentina は「フィレンツェが発祥の」であり、Milanese は「ミラノが発祥の」である。そこに手段を表す alla がつくことで、それぞれ「フィレンツェが発祥のやり方で調理されたビーフステーキ」「ミラノが発祥のやり方で調理されたリゾット」となる。
本家本元を「フィレンツェ流」「ミラノ流」と訳すならともかく、「フィレンツェ風」「ミラノ風」と訳してしまうのは全て誤訳だし、ユネスコの無形文化遺産に登録されたイタリア料理を全く理解できていない証拠ではないだろうか。まして本場イタリアで修行してきたシェフが「〜風」の呼称を使うべきではない。
例えば 京料理 とはいえども 京風料理 や 京都風料理 とは言わない。それと同義であって、alla Fiorentina や alla Milanese は フィレンツェ料理 であって ミラノ料理 である。
それぞれの地域やお店、家庭に調理の流儀が代々伝わっていった体系が総じてイタリア料理であって、イタリアの郷土料理なのだ。ビーフステーキやリゾットなどの調理法をフィレンツェ風やミラノ風にアレンジしてできたものではないのだ。