2016年7月17日、近代建築の三大巨匠のひとり、スイス人建築家のル・コルビュジエ氏(Le Corbusier; 1887-1965)の設計した、国立西洋美術館本館(東京都台東区)を含む、世界7カ国にわたる17の建築作品を「ル・コルビュジエの建築作品 -近代建築運動への顕著な貢献-」( L'oeuvre architecturale de Le Corbusier - Une contribution exceptionnelle au Mouvement Moderne - ) として世界文化遺産に登録することを国連教育科学文化機関(ユネスコ)が決定しました。
生い立ちなどについては wiki にまとめられているので割愛しますが、ざっくり言えば、パリ万博の『レスプリ・ヌーヴォー館』で「ル・コルビュジエ」という名前で建築界にセンセーショナルなデビューをし、船や列車といった客室空間での移動が構想のきっかけとなったといわれる、『ドミノシステム』に基づく集合住宅『マルセイユのユニテ・ダビタシオン』(L'unité d'habitation de Marseille)を設計するなど、モダニズム建築の設計で20世紀の建築の歴史を大きく変えた人物です。
また ル・コルビュジエ といえば、「新しい建築の5つの要点(ピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由な立面)」の理論も有名ですが、私としてはそれ以上に「モデュロール」理論の実践こそ重要な論点であるように思われるのです。
モデュロール とは フランス語の module(モジュール、寸法)と Section d'or(黄金分割)を掛け合わせて作られた ル・コルビュジエ による造語。人体とそれを取り巻く空間との関係性における黄金比を、数学的に導き出したモジュールを考案されました。ル・コルビュジエ は、近代の建築構造に対していちはやく人間工学を取り入れていた建築家だ、ということになるのです。
それはつまり、空間の基準がすべて人間にある、ということでもあります。
ル・コルビュジエ は、実際にモデュロールを用いて様々な設計をしています。ロンシャンの礼拝堂の窓配置、ラ・トゥーレット修道院におけるブリーズ・ソレイユなどがその例です。ロンシャンに行き、初めてあの教会に出会った瞬間、鉄筋コンクリートが生きているかのように自由な形をしていて、また内部に入ると日本では決して体感することのないような空気の重圧感に圧倒されたのを記憶しています。訪ねたのは冬でしたので、あのねっとりとしたような薄暗い闇の中に、いい塩梅で浮かびあがる光の筋が絶妙でリズミカルに配置されていました。
空間の基準がすべて人間にある建築について、ル・コルビュジエ は『住む機械』と表現していました。
「最小限の実用性が得られるように、適切な寸法をもつ簡明な機能に分かつこと。さらに、空間が有効に活用できるように、それらを効果的に組織すること。各機能は許される限り最小の面積を充てること」そのような考えのもと、ル・コルビュジエは従兄弟のピエール・ジャンヌレと共に、彼らの故郷のラ・ショードフォンより温暖なレマン湖畔・ヴヴェイ郊外のコルソー(Corseaux)に年をとった両親のための湖の家(小さな家)を設計しました。
こちらも「ル・コルビュジエの建築作品」の構成要素の一つです。
このような必要最小限の空間の積層が集合住宅『マルセイユのユニテ・ダビタシオン』であり、ひとつのコミュニティを形成するマッス(かたまり)となるのです。ル・コルビュジエ はこの一棟のなかに、幾つもの共用スペースを設け、店舗や郵便局、プールやジム、そして屋上庭園や保育園までを提案し、設計しました。
人間から居住空間へ、居住空間からコミュニティへ空間形成は拡大します。もちろんその上は コミュニティから都市へ、ということになるのでしょう。都市計画としてはインド・チャンディーガル(英語:Chandigarh, ヒンディー語:चंडीगढ़, パンジャーブ語:
一方で現代の日本はどうでしょうか。
ほとんどの建築 において、そのモデュールは人ではなく、お金がベースのように思います。経済至上主義の建築がほとんどではないでしょうか。
日本にも尺貫法という人体発想のモデュールがありましたが、現在はこれでもありません。数字に支配されたコスト優先の設計パターンがどうしても目についてしまいます。特に階段では、足の大きさや歩幅を無視した設計に恐ろしくなることが多々あります。
観光に目を向けてみても今の東京では、右から左に如何に多くの観光客を動かして如何に買い物をしてもらうか、ということしか考えていないのでは...。と思われることもしばしば。このままでは観光立国にはほど遠いままです。
観光客に対して「おもてなし」するのはどこの国でも当たり前のように行われています。日本だけが優れていることではありません。
むしろ、日本よりもイタリアやドイツ、イギリスの方がよっぽど優れたおもてなしをされています。
どのような体験をしてどのように滞在してもらうか。それはハードウェアとソフトウェアの両方のバランスによって構築されるべきです。
かといって、例えば様々な言語で駅構内のアナウンスを表示するべきでもないとも思います。日本語による表記とピクトグラムだけで十分のはずが、あれもこれも、と装飾的になることで却って全てにおいて読みやすさを損ね、分かりにくくしています。本来デザインによって解決されるべき課題をないがしろにしているとしか思えないのです。
また利用する側の立場からすれば、親切と思って行われたことが不必要だった、ということにもなるかもしれません。
もし、ローマに行って、あるいはパリに行って、そこらじゅうに日本語の看板があったらどうでしょう。
きっと美しいと感じられる方は少ないはずです。
観光地には観光地の雰囲気というものがあります。
迷ったっていいんです。それが旅ですから。
留学生がたくさん迷ったらかわいそう?
そうしたら情報のデザインの質が悪いのではないでしょうか...
それは単に文字を書けばいいということでもないですし、人員を割いてでも対応するべきことかもしれません。
「いかに人を管理するか」よりも「いかに魅力ある環境を作れるか」という ル・コルビュジエ 的な視点で、建築から都市の計画までを行えるような認識が今後はますます大切になってくるように思うのです。
先日、上野の国立西洋美術館に行ってきた時の写真もいくつかアップします。
ここにも先に書きました、「新しい建築の5つの要点(ピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由な立面)」の幾つかがみれると思います。
そしてこちらはオマケ。